法光寺

 

あなたの「心の居場所」として・・・広島県尾道市・浄土真宗本願寺派・法光寺(法光寺心理相談室)

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法光寺住職・季平博昭が語る、なんだか気持ち良くなるお役立ちコラム。日々の生活にうまくとり入れれば、新しい道が開けるかも。

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今何処にいて、何をして、何を感じているのか。季平博昭の「今」が見えてくるリアルタイム・ブログ。今日もスマホ片手に、「今」を見つめている。
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コラム

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葬儀や法事は何のためにするのですか

 
お寺の話し合い法座で
 
私が住職を務めさせていただいているお寺の法座では、いつも夜座のご法話をいただいた後、布教使さんを囲んで、茶話会(話し合い法座)を行っています。先日の彼岸会の茶話会では、葬儀のことが話題になりました。
昨今、葬儀に関するさまざまな話題がありますね。決まった定義はありませんが、家族とごく身近な身内だけで葬儀を行う「家族葬」が増えてきたことなど、その是非を問うというようなものではなかったのですが、戸惑いの声や是認論・否定論などから、隣近所とのおつきあいや助け合いのあり方まで話題が広がっていきました。
今までは、誰かが亡くなったら、故人が生前ご縁のあった親しい人や、隣近所の皆さんにお知らせして、皆さんに会葬していただいて葬儀を行うのが当たり前で、「なぜ葬儀を行うか」など、葬儀のあり方ということについてあまり考えていなかったのではないかと気づかされる話し合いになりました。
ここでは、その話し合いを踏まえて、改めて「葬儀」について考えてみたいと思います。
最近、「直葬」といって、通夜・葬儀を行わず、亡くなられたところから直接火葬場にご遺体を運んで火葬するだけの形が増え、社会的にも、宗教色なしの葬儀(葬儀と言っていいか疑問ですが…)についての是非が論じられています。これは、葬儀を行うための費用がたくさんかかり経済的に大きな負担になるという要因もあるのでしょうが、誰のためにそして何のために行うのかが理解されていないため、葬儀を行う意義を見いだすことができていないからなのかもしれません。
 
誰のため、何のため?
 
かつて本願寺出版社から出されたブックレットの『真宗の葬儀』には、一つの見解として、「『葬儀とは、不思議な縁によってであい、ふれあった人とのこの世でのご縁が尽き、人生最後のお別れをする儀式』です。亡き人を縁として、改めて、生かされているいのちの尊さを知らされ、かけがえのない人生を大切に生きる心を教えられる時であり場であります。古くから、浄土真宗の葬儀では死を『生死無常の知らせ』として亡き人を偲び、『正信偈』が読まれ、『葬儀から中陰』を通して、お念仏の教えに出遇う仏縁とされてきました。」としています。
「阿弥陀如来の本願力によって信心をめぐまれ、念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき浄土に生まれて仏と成り、迷いの世に還って人々を教化する」(「浄土真宗の教章〈教義〉)という教えをいただいている私たち浄土真宗の門徒としての葬儀とは、「亡き人の死を悼み、迂遠の方々と別れの悲しみをともにしながらも、お浄土に生まれられ、仏さまとなられたことをよろこび、今、そのことをご縁として、この私が、仏法に遇い、阿弥陀さまのご本願をよりどころとしてお浄土をめざして生きていくという思いを新たにさせていただく厳粛な儀式」と受け止めさせていただきました。
 
話し合いを通して
 
先ほどのブックレットではさらに、「葬儀本来の意味を問うことがなければ、葬儀は単なる死者への形だけの儀礼に終始し、形骸化してしまいます」と指摘しています。
まさに、今、「直葬」というが増えているのは、形だけの儀礼に終始し形骸化させてしまった結果と言えるのかもしれません。そのように考えると、葬儀本来の意義を必ずしも積極的に伝えてきたとは言えない私たち僧侶の責任は重いのだと思います。
あの未曽有の被害をもたらし、多くの尊い命を奪い去った東日本大震災が起こって以来、「直葬」の増加に歯止めがかかったということを聞きました。不条理に多くの命が失われるような出来事に出逢うとき、人は、大切な人の死を悼み、自らの命のあり方を考えざるを得ないのだと思います。
また、現在、「直葬」とともに、「家族葬」も急激に増加しています。その要因は、日頃からの隣近所とのおつきあいや助け合いの希薄化、経済的な負担を軽減するためなど、さまざまに考えられますが、「家族葬」の是非は別として、私は、むしろ、お付き合いと世間体を重視して大掛かりな葬儀をするよりも、大切な人を失った悲しみの中で、静かに亡き人を偲びたいとの遺族の思いが反映された結果でもあるのではないかとも思うのです。
法座に集われた皆さんとの話し合いの中で、そのようなことにも気づかせていただけた貴重な話し合い法座でした。
あらためて、みんなで話し合い、葬儀の意義を問い直し、あるべき葬儀の姿を取りもどす営みを重ねていきたいと思います。
 

2017-04-19 12:32:03

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「悩む」ことは大切なこと

「悩む」ことは大切なこと

 今、『悩む力』(姜尚中著・集英社新書)が話題になっています。
 その本で著者は、母親の生涯について、「母の抱えていた苦悩は、海のように深く、広かったぶん、人として生きる価値を見出すことができたのかもしれない」「悩みの海を抱えていたからこそ、生きる意味への意志がより萎えることがなかった」と述べています。 悩みや苦悩は意味のない厄災(やくさい)以外の何物でもないように思えるけれども、「誰にでも具わっている『悩む力』にこそ、生きる意味への意志が宿っている」のだとも述べています。
 しかし、現実の私の姿はどうでしょう。
 仏陀は、「人生は苦なり」と説かれました。四苦も八苦も、説かれなくとも自覚できるはずなのに、あえて仏陀が苦を説いたのは、悩むことを放棄しごまかしてしまっているこの私の姿が見えたからではないでしょうか。
 私が学ばせていただいているカウンセリングの師匠は、カウンセリングとは、悩みを解決するためのものではなく、健やかに悩める援助をめざすものだといいます。つまり、「苦悩」や「悩むこと」から逃げたり放棄したりするのではなく、ちゃんと悩めるようになるということが大切ということなのです。
 では、ちゃんと悩むにはどうすればよいのでしょうか。
 全国の地方新聞に「小説親鸞」を連載中の五木寛之さんは、連載を始めるにあたっての記事の中で、親鸞聖人を「悩みの天才」と称していますが、『21世紀仏教への旅』(講談社刊)の中で、「私にとって仏教とは、たんなる古典文化ではない。それは日々生きていくエネルギーを支えてくれる智恵であり、ともすれば挫折しそうになる心を励ましてくれる力であってほしいと思う」「仏教は知識ではない。生活のノウハウでもない。この生き難い世に生きていく私たちの魂の食べものなのだ。私はそう感じている」と述べています。
 苦悩を抱えた一人ひとりが、阿弥陀さまに支えられることで逃げたりごまかしたりしないで、それぞれの苦悩に向きあう。支えられているお互いがその苦悩に共感しつつ、さらには社会の諸問題に向きあい課題としていくことができるようになるのです。
「悩む」ことを大切にしながら、基幹運動をさらに強力に進めていくことで、ますます混迷の様相を呈している現代社会に向きあい課題としていきたいと思います。

2014-03-23 18:54:06

「祈るしかない」現実に寄り添う

「祈るしかない」現実に寄り添う

 先日の自坊の法座でのことです。夜席にお参りいただいたご門徒が10人余りでしたので、ご講師に50分のお話1席にしていただき、その後、車座になり、話し合い法座ということにしました。
 しばらくは、法話の感想などで会話が続きましたが、その後少々沈黙となりました。
 そうするうちにあるご門徒のひとりが、「『祈る』ということと『念ずる』ということはどう違うのですか」という質問をされました。
 「浄土真宗では、『祈ってはいけない!』といわれますが、祈らざるを得ない現実がある。祈ってはいけないといわれたら辛すぎる!」と言われるのです。
 「祈って何とかなるとは思わない。でも、祈らずにはおれない現実がある」のだと言われ、その現実の具体的な内容を話してくださいました。この方の最初の問いは、「『祈り』と『念ずること』との違い」でしたが、本当の問いはそのことではなかったのです。
 その話を聞いたみなさんは、その方の「祈らざるを得ない」現実とその思いに共感した上で、温かい思いやりの心の込もった感想を語ってくださり、話し合いが終わってからも何人かの方が、その人に寄り添ってくださいました。
 路上ライブを中心に活動している鍵盤弾き語りシンガーソングライター伊吹唯さんの『変わらないよ』という歌があります。
 「ほんとは弱いあなたを知っていると言ったら怒るかな」「ほんとは寂しいあなたも知っていると抱きしめちゃだめかな」「例えばあなたが涙を忘れてきたなら かわりに私が大声で泣くよ!」「そのままのあなたが私はすきだよ」。
 受け入れがたい現実の前に立ちすくんで頑(かたく)なに心を閉ざしてしまいそうなとき、この歌のような思いが心に染み込むと、強がらずに素直に心を開けるようになるのかもしれません。そして、がんばって生きてきた自身の生きざまを、「よくがんばってきたね」って認めてもらえたら、くじけず生きていく原動力となるのでしょう。
 阿弥陀さまの優しさとぬくもりに出会った仲間(御同朋)の支えあい。短い時間でしたが、この涙の話し合い法座は、「苦悩に共感することのできる開かれたお寺」に一瞬でもなれたかなと、とてもうれしい法座でした。
 自他ともに心豊かに生きることのできる御同朋の社会の実現に向けて共にあゆんでいきましょう。

2014-03-23 18:50:34

「全国門徒推進員のつどいへの期待」

「全国門徒推進員のつどいへの期待」

今月の22日から26日までの5日間、前日までの「親鸞聖人降誕会法要」に引き続き、「本願寺御影堂平成大修復完成慶讃法要」が執り行われます。 その記念行事として、23日の午後1時半から、本願寺阿弥陀堂・御影堂において、ご門主ご臨席のもと、「第五回全国門徒推進員のつどい」が開催されます。 現在、各組で行われる連研を受講し、本願寺で行われる中央教修を修了された「僧侶とともに基幹運動を推進する門徒」である全国7000人の門徒推進員が、各寺院や各組や家庭・職場・地域において活躍しています。その全国の門徒推進員を対象として、本願寺で開かれるのが、「全国門徒推進員のつどい」なのです。  このつどいは、1991(平成3)年4月28日に「本願寺第11代顕如宗主400回忌法要・本願寺寺基京都移転400年記念法要」にあわせ行われたのが始まりです。その後、第2回が1995(平成7)年4月15日に行われた「終戦五〇周年全戦没者総追悼法要」にあわせて行われ、第3回が「蓮如上人500回遠忌法要」期間中の1998(平成10)年9月23日に、そして、第四回は、2002(平成14)年12月1日に、「門信徒会運動40周年・門徒推進員20周年記念大会」にあわせてという形で、回を重ねてきました。 この度の第5回のつどいは、テーマを、「私の歩む道」とし、新しく発布された『浄土真宗の教章(私の歩む道)』を学び、2年後に迎える「親鸞聖人750回大遠忌法要」に向けて、基幹運動の推進と寺院活動への積極的参加をする門徒推進員としての自覚を深めることを目的に開催されます。 まず開会式でご門主よりお言葉をいただき、上山大峻元龍谷大学学長より、「浄土真宗の教章に学ぶ」という講題でご講話をいただきます。その後、門徒推進員がパネリストとなってパネルディスカッションを行います。 会場に集まられた門徒推進員の皆さんとともに今一度、自らの歩んできた道を振り返り、自他ともに心豊かに生きることのできる社会の実現に向けての具体的な歩みについて、ともどもに考えていくつどいとなることが期待されています。 全国7000人の門徒推進員のみなさん、ご本山に参集して、共々に語り合い、今後の門徒推進員としての活動をさらに充実させていく機縁としていきましょう。

2014-03-23 18:49:57

「新型インフルエンザ騒動に思う」

「新型インフルエンザ騒動に思う」

 先月の初め、私の周辺のある男性が高熱を出し、病院で診察してもらった結果、Aソ連型のインフルエンザと診断されたということがありました。私は、ほぼ完治して出てきた彼に、「うつるかも知れないからそばに寄らないで」と、軽い気持ちで言っていました。ところが2・3日後の夕方、私も39、5度の高熱を出したのです。私は、彼のインフルエンザがうつったのではないかと少し思いましたが、咳や喉の痛みなどの風邪に似た症状があった彼に対して、私は高熱のみだったので、うつったのではないことはわかっていたのです。しかし、「ほら、うつったじゃないか」と、これも軽い気持ちで言ってしまったのです。ところが、今度は私が高熱を出したことを知った私の周辺の人は、すでに新型インフルエンザのニュースが世界を駆け巡っていたこともあって、「近くに寄らないで」とか、「うつさないで」と言うのです。彼らも私と同じで、軽い気持ちで言っていることは分かるのですが、どこか、排除されているような気持ちになり、疎外感を感じたのです。そんな気持ちになった時、私がインフルエンザにかかった彼に疎外感を感じさせ、深く傷つけていたのではないかということに気づきました。今回の新型インフルエンザ騒動の中、感染者を出した兵庫県の高校には、連日非難のメールなどが届いているそうです。確かに感染により広がっていく病気は、多くの生命を奪ってしまう危険性があります。しかし、いたずらに感染の脅威を恐れるのではなく、病気に対する正しい知識を得、迅速で的確な対策を講じることで、感染を防ぎ脅威を取り除く努力を重ねることこそ大切ではないでしょうか。そしてもう一つ大切なことは、病気にかかってしまった人を排除・疎外したり、非難するようなことがあってはならないということです。かつてこの国では、人に感染させる可能性がないハンセン病の患者・元患者を「らい予防法」で強制隔離し、人権侵害した歴史を持っています。現在でも作りあげられた偏見によってふるさとに帰ることのできない回復者の方がたが全国の療養所で暮らしておられます。HIV感染者などに対する偏見・差別も根強くあります。今回の出来事を通し、改めて病気と差別ということについて、課題にしなければならないと思いました

2014-03-23 18:49:23

2009年7月10日号

「臓器移植法」改定に思う

 7月13日、「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」の改定案が参議院本会議で可決成立しました。今回の改定は、法が成立して12年たっても国内での臓器移植が増えないことや、「臓器提供」を本人が書面で意思表示し、家族が承諾してはじめて法的脳死判定と脳死移植を認めていたため、民法で意思表示が有効とされていない15歳未満からの臓器提供ができないことを課題とするのが主な目的とされていました。成立した移植法は、脳死を一律に人の死とし、本人が生前に拒否の意思表示をしない限り、家族の同意のみで臓器移植が可能になり、0歳からの臓器移植もできることになります。私たちの宗派では、脳死・臓器移植について統一見解は出していません。それは、「教団内には、さまざまな意見があり、論議が尽くされていない」からです。しかし、基幹運動推進本部から「共に歩む(脳死と臓器移植)」を発行するなど、課題としてきました。その中では、「脳死イコール人の死」とすることについての問題点を指摘しています。「全日本仏教会」など5団体で構成する「日本宗教連盟」は、4月17日と6月1日に、「臓器移植法改正問題に対する意見書」を発表しました。その中で、脳死を一律に「人の死」と規定すべきではない、臓器移植は個々人の死生観と深く関わることから、「本人の書面による意思表示」は欠くことのできない条件である、小児からの臓器移植はより厳格な脳死判定基準の導入など、子どもを保護するシステムを検討すべきとし、「臓器移植法の改正は、国民一人ひとりの死生観に及ぼす影響が大きいことから、問題点を残したままでの採決は、将来にわたり日本人の死生観の形成に禍根を残す」としていました。私も、臓器移植を前提とした、「脳死」を一律に人の死と規定することは、人為的に生と死のラインを操作することになり、さらには個人の死生観を無視することにもつながるのではと思います。宗派としては、6月19日、参議院議長に、「慎重な審議を求める要望」を送付。7月14日には改定案可決を受け、内閣総理大臣などに、「生命軽視につながらないよう適切な対応を求める要望書」を送りました。念仏者として、改めて自らの生と死をどう考えるかという点など、色々な観点から、お互いに考え、論議していきましょう。

2014-03-23 18:48:32

「安穏」京都からのメッセージ」の活用を

「安穏」京都からのメッセージ」の活用を

 「安穏―京都からのメッセージ―」第5号がまもなく届きます。「安穏」紙は、2007年の秋から2012年の春まで、年2回合計10回にわたり発行。1号当たり200百万部を印刷・配布しています。『親鸞聖人七五〇回大遠忌についての消息』でご門主は、「今日、宗門を概観しますと、布教や儀礼と生活の間に隔たりが大きくなり、寺院の活動には門信徒が参加しにくく、また急激な人口の移動や世代の交替にも対応が困難になっています。」と述べられ、最後に「一層創意工夫をこらした活動を」と、示されています。また、『基幹運動計画』では、「布教伝道のあり方、情報の共有・発信のあり方を課題とし、み教えをよりどころに、問い・聞き・語り、伝えていく活動を推進しましょう。」と、具体的な取り組みの推進を提言しています。私たちの宗門の現状は、所属寺院に定期的に参拝する、あるいは宗門の発行物を購読する方がたは、残念ながら限られた役職者や篤信の門信徒にとどまっているといえます。このような宗門の現状をふまえる時、「宗門や本願寺の情報を隅々にまで」を基本方針として、全国の寺院を通して全門信徒及び近隣の有縁の方がたに配布いただき、各寺院における伝道活動の一助となると同時に、宗門の親鸞聖人七五〇回大遠忌お待ち受け機運を高揚することを目的に発行されている「安穏」紙を広く配布し、さまざまな形で活用していただくことが重要なのです。現在、全国7000人の門徒推進員には10部ずつ「安穏」紙が送付されています。4月の門徒推進員代表者協議会では、「配布だけでなく、記事を話し合い法座の話題に取り入れるなど、活用する意識を持つことが大切」との意見が出されました。このたびの第5号は、「縁―かがやき」をテーマとしています。第1面は、テーマにそった詩を掲載しています。第2面には、自死者が年間3万人を超えている、まさにいのちかがやかせて生きることができない現実です。みんなひとりぼっち。その一人ひとりが、暗闇に生きる不安に共感し、支えあい、かがやいて生きるために、いま何ができるのかと問題提起。第3面では、自死(自殺)対策に取り組む本派僧侶の具体的取り組みを紹介した内容になっています。この記事を、法話の中や話し合い法座の話題に取り上げるなど、積極的な活用をすすめていきましょう。

2014-03-23 18:48:01

自分らしく行動すること-ある小説家からの学び

自分らしく行動すること-ある小説家からの学び

 ある読書好きの人から、石田衣良さんの短編小説集を紹介されました。その中の一編に、自分の身代わりになって通り魔に殺害された友人の死を受け入れることのできない主人公が、さまざまな経験を通して、その友人の死を受け入れ、自分も前向きに生きて行くようになるまでの過程を詳細に描く「約束」(角川文庫)という短編がありました。作者の石田さんはあとがきで、「ぼくはテレビニュースを見て泣くことはめったにありません。でも池田小学校の事件だけは例外でした。悲しくて腹が立ってたまらず、気づいたら鼻をすすっていました」と語り、そして、この事件を知り、生き残った子どもたちにエールを送り、亡くなった子どもたちのことを思って、自分に何かできないかと真剣に考えた上で、「自己満足な鎮魂歌にすぎないかもしれないけれど、理不尽な犯罪の被害者が、苦しみから立ちあがり、人生に帰ってくる。その過程をていねいにしっかり書こう。そうすれば、あの悲惨なだけの事件から、なにごとかを救いだすことができるかもしれない。」と語っています。私たちは、それぞれの人生を懸命に生きています。それとともに社会の一員としても生きています。しかし、ともすれば余裕のない中、自分の都合ばかりを考え、社会の一員として他の人のことを考え支えあって生きていこうとする思いを失いがちです。本当は支えあっているはずなのに、そのことに気づかず、具体的にどう行動すれば支えることになるのかがわからないというのが実際なのかもしれません。「かけがえのないものをなくしても、人はいつか自分の人生に帰るときがある。さまざまな喪失によって止まってしまった時間が、再び流れだすとき」、そのことを描くことで、「ひとつでもあなたの凍りついた傷口に届くものがあれば、作者としては満足です。」という石田さんの思いは、小説家としての自分がその立場で、どうすれば社会の課題に向きあい、貢献できるかを真摯に考えられた末の取り組みだったのでしょう。私たちはみんなで力をあわせ、統一した取り組みを進めることも必要ですが、それぞれ自分の立場で何ができるかを真摯に考え、自分なりに工夫して、自分らしく行動することも大切だということを学びました。私は僧侶として、何ができるかを改めて真摯に考え、行動したいと思います。

2014-03-23 18:47:14

「ある門徒推進員さんの活動から学ぶこと」

「ある門徒推進員さんの活動から学ぶこと」

 先月、ある門徒推進員の女性が、突然倒れられたとの連絡を、同じ推進員の仲間の方からいただきました。彼女は、その10日後に62歳で亡くなられたのです。毎年、年賀状をいただき、推進員として元気に活動しておられる様子を報告してくださっていたので、とても驚きました。
 1993年秋に門徒推進員になられて以来、彼女は教区のビハーラ活動や、組(そ)の仏教婦人会活動に積極的に参加され、中心的な役割を担っておられました。そのような彼女ですから、所属寺でも、もちろん献身的なはたらきをされていたようです。
 先日、たまたまその組の若婦人のつどいに出講させていただいた折、所属寺の坊守さんにお会いしました。坊守さんは、「とてもたよりにしていたのに…」と、すごく落胆されている様子でした。その坊守さんから本当に尊いお話を聞かせていただいたのです。
 生前、彼女は本当に献身的に一人で何でも引き受け、お寺のご法座などでいろいろと走り回り、いろいろな仕事をこなしておられたそうです。その彼女が亡くなられたわけです。
 しかし、先日彼女が亡くなられて初めて勤められた所属寺のご法座では、「もう○○さんはいないのだから、このことは私が…」といった形で、日頃、彼女にまかせっきりだった色々な仕事を、何人かの人が分担された結果、スムーズに、法座の運営が進んだということなのです。
私は日頃から、門徒推進員は、陰になり日向になりながら、いろいろなことを創意工夫して取り組んでいただきたいとお話しています。
 さらには、一人だけでいろいろなことを担うのではなく、多くの人に協力していただくよう促すのも推進員としての仕事だとも話してきました。
 彼女の日頃からの活動は、彼女が意識していたかどうかは今となってはわかりませんが、周りの人に言葉で協力をしてほしいと促すのではなく、彼女自身が一生懸命に動き回ることで、周りの人たちに何をなさなければならないかを無言で示してきたということなのだと思います。
 ともすれば、「私はこんなにがんばっているのに」と愚痴をこぼしがちですが、彼女の実践によって、大切なことを教えていただいたように思います。
彼女の遺志が生かされ、門徒推進員の活動がますます広がることを期待しています。

記事の詳細を記述します。

2014-03-23 18:36:10

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「なぜ、人を殺したらいけないのか?」

「なぜ、人を殺したらいけないのか?」

 先日、第3連区のビハーラ研修会が本願寺聞法会館で開催されました。私もパネリストとしてパネルディスカッションに参加しました。テーマは、「脳死・臓器移植問題を考える」。脳死・臓器移植の課題を通して「いのちの尊厳と平等」ということを考える貴重な時間となりました。その論議の中、次のことを思い出しました。かつて、「なぜ人を殺したらいけないのか?」と問うた高校生に対して、各界の有識者の誰も納得のいく答えを返すことが出来なかったというあの出来事です。当時私も、どう答えればいいのか自問しましたが、いざ答えるとなるとなかなか難しく、納得のいく答えを導き出せませんでした。そのような問いを出すことそのものを非難し否定する論調もありました。お釈迦さまは、「すべての者は暴力におびえ、すべてのものは死をおそれる。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。」(『ダンマパダ』)と説かれています。だれもが暴力におびえ死をおそれているのだから、自分の身に置き換えれば、自ずから他の人を殺してはならないということがわかるということでしょう。私は、ひょっとするとその高校生は、自らのいのちの尊さを実感できていないから、自分の身に置き換えても「なぜ人を殺してはいけないのか?」との問いを出したのかもしれないと思いました。「人は、他の人から大切にあつかわれる、つまり、思いやりの心で接してもらうことによってのみ、自らのいのちの尊さを実感できるのだ」という話を聞いたことがあります。「なぜ人を殺してはいけないのか?」との問いを、何の違和感もなく発してしまう感覚のその高校生の心情を思うと、辛い思いになってしまいます。阿弥陀さまのはたらきの中を生きる私たち念仏者は、このような感覚を克服するためにも、支えあう人間関係をつくり、それによってすべてのいのちを尊ぶ社会環境を作り出さなければならないと思います。宗門の基幹運動は、今まで特に部落差別の現実を課題とする中で、「いのちの尊厳と平等をもとに」という観点を培ってきました。今年も「差別の現実」を課題とするとともに、「脳死・臓器移植」「自死(自殺)」「死刑制度」など、さまざまな具体的課題に取り組む中で、支えあう人間関係を築き、いのちを尊ぶ社会環境を整えることをめざしていきましょう。

2014-03-23 18:29:17

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